学ぶとは
自分の内側と向き合うことをして
まるまる2年が過ぎた。
内側と外側とか
5%と95%とか
魂だとか、源だとか
見える世界と見えない世界とか
繋がっているとか遮断されているとか
目新しいことを知るのが楽しかったし
それでしあわせに生きられるなら
ぜったい知りたい!モノにしたい!って
夢中になって学んできた。
学んだことをノートに書き写して
カテゴリ分けしてみたり、
要点をまとめたり 図にしたり、
そんなことが毎日の日課だった。
それが学びだと思っていたし、
それしか学ぶ方法を知らなかったから。
そうして気づいた時には
わたしのノートは参考書みたいになっていて、
頭の中は知識でいっぱい。
ふわっとかんたんに
わたしのままで
しあわせに生きるのが目的だったのに、
知識を増やすことが目的になっていた。
そんなふうだから
ノートを広げても
癒しなんて感じなかったし
現実創造にわくわくすることもなく、
現実が変わらないのは
知識が足りないからで、
もっと学ばないとダメだ。
ちゃんとモノにしなきゃダメだ。
できないわたしは劣等生だ。と、
本末転倒の沼にまっしぐら。
これが高校1年の期末テストだったら
学年順位上位3位以内に入るのに。
なんて、アホな想像をして自分を奮い立たせてた。
(やめろ。それ叶ったらどうすんねん。)
でね、いくらアホでも
これぐらいになると、薄々気づいてくるんです。
何なのかはうまく説明できないけれど
何かがおかしいと気づきはじめる。
ノート広げても楽しくない。
知識集めるのもわくわくしない。
知識が増えてもしあわせじゃない。
もう学ぶのやめよ。
何にも書かないで
何にも考えないで
ただ言われたとおりにやってみよう。
そうしてやってみて
ハッ!とした。グッ!と来た。
田原俊彦はこれを伝えてくれてたのか!
「学ぶ」というのは
こういうことだった と、気づいたのは
やったあと。
知る→やってみる→わかる が
どういうことかわかったのも
それをやったあと。
学ぶ=真似る の意味がわかったのも
やったあと。
そもそも、
「学ぶ」を「勉強」だと
思いちがいしてたことに気づいたのも
やったあと。
「理解してからやるんじゃなくて
やるからわかるんですよ」って
さきこさんが教えてくれてたそのこと自体も、
わかるのは、やったあと。
ぜんぶ、
やったあと振り返ってみた時に
わかるようになっている。
やっぱり世界は逆さまだった。
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